今回、下記のサイトでも紹介をして頂きましたが、僕は5歳の時に2つの病気を患いました。
1つが「徐脈性不整脈」。一般的に安静時の心拍数は「60~70」くらいと言われていますが、僕は「30台前半」でした。つまり、正常の方の半分しかなかったのです。小学生の時は、全身運動が心臓に良いと言うことで5歳で「水泳」を始め、小学生時代には、「バスケット」と「野球」もやりました。一番、嫌だったのは毎年、行われる「マラソン大会」。病気を持っていると言うことで肩にリボンをつけたり、派手なビブスを着たりして走るのですが、「危険人物」感が出てしまってかなり恥ずかしかった記憶があります(苦笑)。そして、もう一つは夏休み前に来る恒例イベント。心臓の動きを見るためのレコーダーをウエストバッグのような形で肩から下げるのですが、それを1日中つけているので汗もかくし、みんなにジロジロ見られるしって感じできつかったですね。
でも、一番きつかったのは、やはり「吃音症」でした。数年前、吃音症になった本当の原因を知りたかったので、催眠療法(怪しいものではないです笑)で過去のことを調べてもらいました。結果は、両親から教えてもらった通り妹が川に溺れた時の出来事がきっかけでした。うまく言葉が出てこなかったこともそうですが、兄として妹を助けられなかったのが一番の原因のようでした。幼児期はそれほど気にしていなかったのですが、小学生になるとだんだん自分がうまく話せないことに不便を感じるようになりました。「あ、あ、あ」と同じ言葉を繰り返したり、言葉が詰まったり、最悪、言葉が出せないこともありました。授業中にそれが出てしまうと、教科書を読む時や挙手をして答える時にどもってしまうので、その際には、決まって笑いが起きますし、休み時間には真似されることが増えて行きました。そこで僕が選んだ方法は話さないことでした。もちろん、全くではないですが、自分を守るために必要以上のこと以外は話さなくなりました。なので、周囲からは「おとなしい」と言われていましたが、本当はみんなとたくさん話をしたかったのが、正直なところでした。だからと言って、今でも当時の同級生のことを恨んでいたりとか、嫌いとかそう言う感情はなく、今でも大切な友達です。
そんな僕ですが、風邪以外で学校を休んだり、保健室登校をしたりすることは一切、ありませんでした。それは、「保健体育」の授業があったことと、陸上記録会や運動会、スケート・スキー教室があったからです。僕が良いプレーをしたり、活躍をしたりすればみんなが「すごい!!」とか「ナイスシュート」と褒めてくれたのです。そして、いつしか僕はこう思うよりになりました。「スポーツは吃音症の僕でも輝ける」と。僕の夢が「スポーツ選手」に決まったのは必然の流れだったのです。
メディアの方から受けるインタビューや知人との会話の中で「何で足を失ってもスポーツをやっているの?」と聞かれることがあるのですが、答えはシンプル。「スポーツをしていることが生きている証し」だからです。だから、足を失ってもスポーツを辞める選択肢は一切、なかったですし、むしろ、これからどんなスポーツを始めようかといった「ワクワク感」の方が大きかったと思います。では、なぜ「走り高跳び」かと言うと、小中学校の時に学校で一番高く跳べたのが僕で、中学生の時に山梨県で2位の記録(1m76)を持っていたからです。当時は、野球やサッカーが流行っていましたが、僕がハマるものはバスケだったり、ハンドボールといったマイナーな競技。僕にとってはメジャーとかマイナーとかは関係なく、持ち味である「ジャンプ力」が活かせる競技だったら何でも良かったのです。だって、野球やサッカーで無意味にジャンプしていたらおかしいですからね(笑)。
現在の僕のフィールドは「パラリンピック」の世界。そこで金メダルを取ることが一番の目標であり、その世界で戦い続けることが一番のやりがいでもあります。しかし、最近、アラフォーになって興味を持ってきたのが「マスターズ」の世界。これまでは「同じ障がい」の選手と戦ってきましたが、マスターズは「同じ世代」の人と勝負ができるのです。それもM40(40歳〜44歳)の日本記録は僕の自己記録と同じ「2m02」。さらに、M45(45歳〜49歳)の世界記録保持者はなんとオリンピックと世界陸上の金メダリストである「チャールズ・オースチン選手」(PB:2m40)で記録は2m05。これはもう加齢が楽しみでしかありません。
ここに宣言します。アキレス腱が断裂しない限りは何歳になっても跳び続けます!!今後も僕のジャンプ人生を温かく見届けて頂けると幸いです。
TORU
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